一度は民主からの都知事選立候補に前向きだった筑紫哲也

昨年、ジャーナリストの筑紫哲也という人物が亡くなりました。
政治記者出身ということもあり、本人の思想信条を押し隠し、やや公平すぎる姿勢で幅広い人脈を培っていた、ジャーナリストとしては稀有な方です。


テレビを知り尽くしていた「態度で語る久米」に視聴率では及びませんでしたが、言葉で語る筑紫として、久米とは一線を画した番組作りには定評がありました。


その筑紫が、天職であると自認していたジャーナリストから、ただ一度だけ政界に転身を図ることに前向きになっていたとされるのが、一昨年の都知事選だったそうです。


このことは筑紫が亡くなった晩のニュース特番で知ったのですが、本人はかなりその気だったそうでして、しかし家族の反対などもあり、立ち消えになったということです。


この頃の筑紫は、経済的に最初から成り立たないことが分かっていた新銀行東京に関する無責任、差別発言の多い知事とそれに迎合するマスコミのムード、靖国問題での横柄な態度など、様々な点から危機意識が芽生えておりまして、その世相が天職であるはずのジャーナリストからの転身を最後まで悩ませることとなったようです。


この打診をしたのが民主の菅直人と言われておりまして、本当にこの時ばかりは筑紫も天職のジャーナリストを辞する決断に傾いたそうですが、当時の筑紫は、それ程までにして国を憂いていたということです。


都政はもとより、小泉政権から引き継がれた、放り投げる前の当時の安倍政権により、憲法改正などに一気に舵が切られる国政を案じていたことは明白でありまして、当時国内に流れていたムードと対峙する一里塚となろうとしたものと思われます。


当時の奇妙な雰囲気は私も覚えておりますが、その年の秋の安倍の政権放り投げ、昨年の福田の政権放り投げにより、世相は一変致しました。


筑紫が生涯にただ一度だけ転身を悩んだ政党が民主党というのも、今日を占うジャーナリストとしての先見の明なのかも知れません。


(文中敬称略)