語るに落ちた検察役の指定弁護士、検察審査会は検察の不起訴を妥当と認識していた

小沢弁護団弘中惇一郎弁護士は、昨日の記者会見で次のように述べました。

「我が国の検察は『有罪判決が得られる高度の見込み』という起訴基準をうたっている」


一方、検察役の指定弁護士の発言は、以下の通りです。


http://astand.asahi.com/magazine/judiciary/articles/2011013100029.html?iref=chumoku

「私たちの職務というのは、必ずしも、有罪だと確信したから起訴するのではなくて、起訴するのが法令で決まっており、その中で、起訴しない条件はなかった」(村本道夫弁護士)、「有罪を獲得できると思ったから起訴したというよりは、(検察審査会で)起訴が議決されたから起訴した、ということ」(山本弁護士)


つまり、検察役の指定弁護士は『有罪判決が得られる高度の見込み』があって起訴したのではなく、検察審査会の議決に基づいただけということです。


検察審査会は、検察の不起訴にダメ出しをして起訴相当としたわけですから、『有罪判決が得られる高度の見込みがありながら、検察は不起訴にしたので検察はけしからん』と耳を揃えて動かぬ証拠を出し、「この通り、検察はおかしいではないか、起訴せよ」と主張しなければなりません。


ところが検察審査会には検察を上回る動かぬ肝心の新証拠があったわけでもなく、市民感情というムードやイメージで起訴相当の議決を出したため、検察役の指定弁護士でさえ「私たちの職務というのは、必ずしも、有罪だと確信したから起訴するのではなくて、起訴するのが法令で決まっており、その中で、起訴しない条件はなかった」「有罪を獲得できると思ったから起訴したというよりは、(検察審査会で)起訴が議決されたから起訴した、ということ」などと『有罪判決が得られる高度の見込み』を表明できない事態に陥っているのです。


検察審査会が『有罪判決が得られる高度の見込み』の動かぬ新証拠を手に入れていたのであれば、指定弁護士はこんなに困りません。


つまり検察審査会は、「検察は『有罪判決が得られる高度の見込み』という起訴基準に従って、不起訴にしていた」のであり、「検察の不起訴は妥当である」ということを認識していたことになります。


このように、素人が感情やムードだけで新証拠も『有罪判決が得られる高度の見込み』もなく、「裁判所が判断すること」などと、ある人物を起訴して裁判所に丸投げすることは人権感覚の欠如も甚だしいものであり、検察審査会のあり方や存在意義が問われて当然です。


【参考・朝日より】



(文中敬称略)